或るツーリストの追憶 雨が、降り注ぐ。鉛色の空から堰を切った様に溢れ出すそれを肩で受け止めて、男は佇んでいた。名も知らぬ白い花が雨粒の重みに耐えきれずに撓み、鈍い色を光らせて雫を飛ばす。その様をただ、淡い金の視線が捉えている。 「白待歌」 『――御傍に。灰燕様』 名を呼べば、白銀の声が返る。同時に身を打ちつける雨の感触が無くなった事に気付き、緩慢な動作で振り仰いだ。 空は鈍く、雨は止め処無い。 「構わん」 主の言葉を的確に察し、雨を遮っていた不可視の覆いが取り除かれる。再び降り注ぎ始めた雫、肩を濡らし温度を奪うだけのそれを、男は何故か愛おしいと思った。 草木を撓らせ、大地を潤す、普遍の循環。 白銀に燻る刃を沈めた時の、躍る水面。 そして何よりも、男の知る限りで唯一の、変わりなきもの。 此処は何処か、と男は再度視線を巡らせた。先程まで彼が居たはずの鍛冶場は既になく、名も知らず見覚えも無い草木に囲まれ雨に打たれているばかり。問おうにも人の姿は無く、ただ所在無く立ち尽くすしか出来なかった。 ――彼の刀は。 不意に脳裏を掠めた疑問に、雨に濡れた両掌を見下ろす。鞘と鍔、柄を与えて魂を宿すはずだった彼の灰鋼は、水の溜まる地面にも、己の両掌にも、何処にも存在していない。 完成しない侭放り出されてしまった刃の事を思う度、唇を噛み締める。せめて、この異変も、彼の完成を見届けてからにしてくれれば良い物を。今更考えても詮無き事と解ってはいるが、それでも悔やまずには居られなかった。 彼の鋼、打つ度に響いた彼の高い音、焔に灼かれて輝く彼の白銀、その全てを現実の様に思い描く事が出来る。――それなのに、其れが此処には無い。 『灰燕様』 ふわり、と男の右手を白焔が覆う。熱を一切感じさせないそれは、激しい雨の下でも消える事無く在り続け、男をいたわる様に煌めいた。 抱き締められる様にして、声が降る。 『何を憂う事が御座いましょう。白待歌が御傍に居りますれば』 「……そうじゃな」 柔らかなその感覚に、男は金の目を細めて笑んだ。 鋼が在れば、また幾らでも灼く事が出来る。男にとって必要なのは、この美しい色彩だ。 己の灰鋼、己の魂の一欠片を灼く、唯一無二の焔。 それさえ在れば、場所が何処であろうと構わないのだろう。 ぐ、と応える様に拳を握れば、掌中の白焔が軽やかに躍った。 PR ※ Comment
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