或る日の探偵事務所・壱 披(ひら)かれた書の上には、青白い燐光が立ち上がっている。よくよく近付いて見ると0と1でできていると判るソレは、書の上の四角い空間に何やら立体的な図形を描いているのだった。 「これ、判るか?」 燐光の青の向こう側で、木賊 連治の眼鏡が閃く。至極真摯な表情でそう問いかける彼に、鰍はただ首を傾げるしかなかった。 「や、わかるか……って言われましても」 ずい、と押しつけられた書物。何気なく手を伸ばせば、それは実体を持たないはずなのに鰍の手の動きに合わせて回転した。思わずおお、と声を零す。 「まず説明をください。コレは何?」 「名前は知らん。ターミナルの骨董品店で買ってきた」 「……骨董品?」 どう見ても“骨董”とは呼べない近未来の産物であろうソレを前に、訝しく目を眇める。連治も連治で同じ疑問を抱いていたようで、苦々しく顔を顰めるだけだった。 「まあそれはおいとくとしてだ。何つうの、パズル本? 暗号本、って言った方がいいか、何かそう言うのらしい」 曰く、表示されるパズルをひとつ解けば新しいパズル、または暗号が現れるのだと。 自分よりも聡明なはずの連治が投げる要領を得ない説明に、やはり彼自身も詳しくは把握できていないのだろうと思わされ、鰍はひとつ溜め息をついた。何故そんなものをうちに持ってくる、と言いたくなるのを堪え、疑問をまたひとつ進展させる。 「で、それを俺にどうしてほしいわけ?」 「このパズルを解いてほしい」 至極、簡単な依頼だった。 だが同時に、至極難解な依頼でもあった。 「……や、無理でしょ」 「どうしてお前もそう言うんだよ!?」 思わず心のままに呟けば、裏拳を撃ち込まれそうな勢いで突っ込まれる。テーブルの上に身を乗り出す、銀縁眼鏡の奥の瞳は予想外に真剣だ。心なしか目の下に隈もできている。恐らくは、本気で悩んでいるのだろうと知れた。 だが、 「あんたに解けないものをどうして俺に解けると思うの」 鰍にとってはそう言う他なかった。 出身世界においては『名探偵』とさえ呼ばれ、あらゆる暗号・トリックに通じるこの男に解けないものがある事さえ信じられなかったし、あまつさえそれが自分に解けるとも思えない。 しかし連治も弱みを見せた以上、簡単に引き下がれはしないようだった。 「鍵師と探偵とじゃ頭の作りが違うだろ」 「俺探偵だから。鍵師じゃないから」 憮然とそう言う男にさり気なく主張をしてみても、聴き入れる様子はない。この男ならず、大半の知り合いがしている勘違いなのだが、何故か一向に直される気配はなかった。――その理由さえも想像がついてしまうのが、なおさら哀しい。 「て言うか何処でその情報得たの? ここの事務所一言も鍵なんて謳ってないんだけど」 「ああ、それは――」 「おれが言ったからな」 風のように割り込む声。 二人の挟むテーブルの上に、銀のトレイが置かれた。二つの視線がそちらに落ちて、甘やかな紅茶のカップを見とめて、そしてそのトレイの運び主へと持ちあがる。全く同じ仕種を見せた二人の“探偵”に、サングラスの奥の緑灰の目を細めて、男はわらった。 「鰍なら鍵師だし、こういう立体パズルも得手としてるんじゃないか? って」 「やっぱりあんたか……!」 悪びれる風もなく微笑むムジカ・アンジェロに、薄々予感はしていたと鰍が項垂れる。 「だって、前おれが持ち込んだからくり箱をあっさり開けてくれたじゃないか」 「ああ言うのはパターンがあるんだよ。――っつか俺、言いませんでしたっけ。あんまりこう言う依頼持ち込まないでくれって!」 「鰍は困っている友人を見捨てるのか?」 「困ってるのはあんたじゃないでしょ!」 勢いに任せてテーブルを叩こうとして、しかしその上に乗っているトレイに気付いて手を止めた。代わりにカップをひとつ手に取り、注がれた紅茶を喉に通す。控え目だが柔らかな、風味が咥内に広がった。 「まあ、今回はその紅茶に免じてゆるしてくれ」 そう言われてしまっては、許さざるを得ない。 ――思わずそう考えてしまうほどに、絶妙な味わいだった。 「……仕方ないなあ。解けなくても怒らないでくれよ?」 一旦紅茶を手放し、長い髪を掻き混ぜ、唸るように呟く。ソファの上に落ちていたニットターバンを手にとって、前髪ごと掻き上げれば、ピンク色に遮られていた視界も幾分か明瞭になる。そろそろ髪切らなきゃな、と余計な考えが脳裏を走り、溜め息をついて追い出した。 「初めから駄目元だ。んなもん気にしてねえよ」 「あーそうですか。……って、ムジカさんには頼んだりしなかったの?」 ふと、顔を上げる。 彼らの言い分を聴く限り、どうやらムジカも連治の事情を理解しているようだった。名探偵と持て囃される彼が解けぬパズルに、好奇心の塊のようなこの男が興味を示さないはずがないと思っての問いだったが、問われた連治は忌々しげに顔を顰め、ムジカはムジカでくつくつと笑いを堪えている。 「何、その反応」 「……そいつ、見もせずに言ったんだよ。『連治に解けないものがどうしておれに解けると思うんだ?』って」 渋々吐き棄てられたそれは、酷く既視感のある台詞だった。 「だって、当り前じゃないか」 「だからって、解こうともせずに言うか、普通?」 いや、言うよ。 鰍は口の中だけで呟く。言ってしまえば間違いなくこの難儀な名探偵殿の機嫌を損ねると判り切っていたから。 つまりは、連治への信頼が間違った方向で発揮されているのだ、二人とも。そして鰍には鍵師と言う(不本意な)実績があり、ムジカにはそれがない。それだけだった。 彼らが揃ってここを訪れた謎も晴れ、鰍はもう一度溜め息を零す。正面では憔悴した名探偵が縋るような目を向けていて、横では楽しげな素人探偵が期待の目を向けている。 ――やるしかないか、と己の両頬を叩いて、鰍は身を乗り出した。 書の上の青い燐光は、解いてくれる手を待っている。まずはその形を探るように、横に一回転、縦に一回転させて、構造を見極めた。 立体は、至ってシンプルな、サイコロの形をしている。1から6の目の他にはこれと言った図柄もなく、もちろんとっかかりになるような突起もない。 「……これの何をすればいいわけ?」 問いかけてみても、無責任な二人はただ肩を竦めるだけだった。最早己の手を離れた謎だ、行く末は見守れど、口出しをする気はないらしい。 諦めて、燐光のサイコロに視線を戻す。何度かくるくると廻してみて、ふとそれを持ち上げる事が出来る事に気付いた。ずしり、と実体を得たサイコロが鰍の手の上に重みを伝える。書から離れても、それは消失したりしなかった。 「あ、持っていいんだ」 「らしいな。よくできてる」 手に取ったサイコロは、いつの間にか0と1の集まりから寄木細工へと姿を変えていた。数か所、スライドしたり窪みを見せる場所がある。 何度か手の中でサイコロを転がしたり光に透かしたりしながら、鰍は目を細める。――内部で、ちかりと光る何かがある。 サイコロを手から離し、テーブルの上を自由に転がす。何度かそれを繰り返してみたが、何故か出目は常に同じ6。 「……錘(おもり)、か」 丁半賭博などに使われるイカサマ仕様だ。試しにと手渡したムジカが振ってみても、同じ目を指す。 「イカサマは判ったが、これをどうするって?」 「んー、俺はどっちかと言うと、内部が空洞に見えたのが気になるんだよな……」 ムジカの素朴な疑問――と言うよりはただの茶々だ――に応えながら、鰍は受け取ったサイコロを更に弄り回す。その目が既に真摯な、鍵師としてのソレへと変わっている事に、本人だけが気付いていなかった。 引き、押し、ずらして、手の中のサイコロの形を崩していく。その様はまさしく、鰍にとっては馴染み深いものだった。 「からくり箱、だな」 「おれの判断は正解だったろ?」 ギャラリーの二人は互いに目配せし、小声で言葉を交わして、鍵師の仕事を見守る。 サイコロが再び立方体の形に整えられた所で、鰍は顔を上げた。 「これ、振ってみて」 渡されるままに、ムジカはテーブルの上にサイコロを転がす。錘によって出目が固定されているはずのソレは、しかし今度は違う目を指していた。何度転がしても、同じ。 「5か」 「もしかして、順番に?」 「だな。ってことは同じ事をあと五回やれってか……めんどくせー」 言いながら、鰍は再びサイコロの解錠に没頭する。心なしかその速度は上がり、のめり込む彼の顔も生き生きと輝き始める。相手が馴染みのからくり箱であった事への安堵か、それとも終わりが見え始めた事への喜びか、それは傍から見る二人には判らなかった。 紅茶が冷める暇さえも与えず、ギャラリーをも圧倒する勢いで鰍の解錠は進む。時折手品師が助手に手伝いを頼むようにムジカにサイコロを振らせれば、それは確実にひとつずつ、出る目の数を落としていくのだ。 4、3、2、1。 「あと一回だ」 「わーかってる」 軽口をたたき返すほどの余裕はあるらしい。立方体を崩しながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返す。 カチリ、パズルのピースが揃うのにも似た、開放感さえある音が響く。 「よっし、これで……」 顔を上げる。 今までと同じようにムジカにサイコロを差し出せば、彼は何故かそれを受け取らなかった。 「最後は自分で開くものだろう?」 微笑んで、鰍にサイコロを転がすよう促す。何が起こるのか、一刻も早く見てみたい気持ちはあるが、今はそれよりも鰍の業(わざ)への称賛が勝った。 「んじゃ……」 柔らかな催促に応えて、息を呑み、鰍はサイコロをテーブルへと転がす。 鍵師の手を離れた瞬間から、それは始まった。 寄木細工が、崩れて行く。 ひとつ転がるごとに、サイコロを組み立てる木がひとつ、剥がれて行く。剥がれた木は0と1に戻り、青白い燐光に戻って、ふわりと空気に融けた。 サイコロは何処までも転がって行く。ぼろぼろと毀れながら、崩れ落ちながら、テーブルを縦断し――成り行きを見護る、連治の前へと辿り着いて、テーブルから零れ落ちる。 彼がそれを受け取ろうと手を差し伸べる、その大きな掌に、ほとんど形を留めていないサイコロは着地した。 最後の一欠片が、青白い光と散る。 後に残されたのは、空虚。 ――否、それだけではない。 「……なるほど?」 連治が口端を擡げて笑う。 掌で受け止めた光が、僅か一粒、青白い色を燈している。二人に見えるように手を差し出せば、覗き込んだ彼らもまた、同じように笑みこぼした。 奇術師の掌には、青く青く透き通った、『0』の一文字だけが残されていた。 PR Copyright © [ 無声慟哭 ] All Rights Reserved. http://asurablue.blog.shinobi.jp/ |