或る日の探偵事務所・弐 「あれ? そういやうち、こんな茶葉あったっけ」 「ああ、折角何種類も置いてあったから、混ぜさせてもらったんだ」 「え、ブレンドってやつ? すげー、俺にも教えてよ」 「御好評は嬉しいが、もう忘れてしまった」 「ちぇー」 「……おいこらそこ二人」 和やかな会話と芳しい紅茶の香りをぶった切って、不機嫌極まりない声が掛かる。語る口を止め、鰍とムジカがそちらへ向き直れば、やはり不機嫌な――心なしか苛立っているような連治の顔があった。 とんとんと、滑らかで長い指がテーブルの表面を叩く。 「少しは手伝え」 奇術師の掌が指し示す、その上に披かれているのは、相変わらず青白い燐光を燈し続ける暗号本。閉じれば古びた辞書の類に見えなくもない、重厚にして冗長な書面の上で、何やら文字が躍っている。 しかし、二人がそれを覗き込む事はなかった。 「や、もういいでしょ。あとは連治一人で」 「投げるな!」 「投げるも何も、それは元々お前の物じゃないか」 パズルをひとつ解き明かした事で満足したらしい鰍と、端から手を出すつもりのさらさらないムジカ、両者のスタンスは対照的だったが態度はよくよく似通っていた。 つまり、連治一人居れば解けるのだろうと、楽観視している。 「でもさ、実際に連治、すらすら解いてんじゃん。今何問目よ」 鰍とて、注目はしなかったが一応見てはいたのだ(ムジカは見てすらいなかったかもしれないが)。連治の滑らかな手は止まることなく、青い0と1の創り上げる暗号を流れるような優美な動きで解き明かしていっていた。まさしく、一目見ただけで暴いていく、その鮮やかな手際に、横目で見ていただけの鰍も感嘆するしかなかった。 ひとつ暴かれるごとに、ぼろりと光は崩れ、青く透き通った『0』の文字を残す。それを書面に埋め込めば、新たな問題が現れる。そういった仕様のようだった。 鰍に問われ、ふと連治は書面を覗き込む。並ぶ『0』を数えて、首を傾げた。 「……多分、二十五問目」 「はええよ!」 「流石は名探偵」 訝るように唸る連治――彼自身そこまで没頭していた自覚はなかったのだろう――に、告げられた数のあまりの多さに驚く鰍と、微笑むムジカ。彼らが紅茶一杯を飲み乾す間さえなく、この男はそれだけの数の問題を解き明かしてしまったらしい。 「やっぱり要らねえじゃん、俺ら」 「いや、流石に疲れてきた。手伝え」 しかし、当の名探偵殿はあくまで助力を要請する。眠たげな目を挑むように細め、テーブルの上を叩き続けた。 掛けていた眼鏡を外し、目頭と目頭の間を揉むように指で挟む。その仕種に彼の疲弊を感じ取り、鰍はどうするべきか、と隣のムジカを見遣る。 珊瑚色の髪の男は相変わらず微笑んだまま、ゆるやかな動きで手を伸ばした。連治の前に置かれていた書面を手に取り、己と、鰍に見えるように、斜めに向きを直す。 「この問題は解けているのか?」 「あー……? ああ、LOSTRAILだ。ロストナンバーの手製らしいな」 暗号か、それともこの本そのものか。問題を見もせずにそう答える。言われるままに、ムジカの細い、しかし力強さをも備えた指が青い燐光のキーボードを叩けば、暗号は一度鮮やかな輝きを見せた上で、ぼろぼろと0と1の粒になりほどけていった。 最後に残された青い『0』の文字を手に取り、書面の上に並ぶ0の隣に収める。燐光が再び立ち上がって、彼らの前でまた違う画面を構築していく。零れるように、踊るように。 そして現れたのは、言葉ではなく画像。 「棒人間?」 六人の簡略化された人間が、様々なポーズを取っている。何処かで見た事があるような、と唸る鰍の横で、ムジカの緑灰の目が嬉しそうに細められた。 「踊る人形、か」 ぽつりと呟いた、その名にも聴き覚えはあった。 「なんだっけ、それ」 「シャーロック・ホームズだ。世界でもっとも有名な暗号とも言われてる」 画面に魅入って鰍の問いに応えようとしない男の代わりに、連治が簡潔な説明を加える。鰍もまたそれで把握し、言われてみれば確かに、と再び画面を覗き込む。 「人形の形一つ一つがアルファベットに対応してる。その暗号は六体居るから、六文字の単語って事だな」 「へー」 連治は律儀に説明を続けてくれたが、正直鰍にはそれ以上詳しい事はわからなかった。画面の中の人形は彼を嘲笑うかのように奇怪なポーズを取り続けている。 不意に、その視界の端で、手が動いた。 やはりゆるやかな、優雅と言ってすらいい動きで、ムジカが青白いキーボードへと手を伸ばす。音の代わりに光を立てて、アルファベットを叩いていく。R,H,Y,T,H―― 「わ、ちょっと待って待って!」 「――ん?」 最後の一文字を打とうとするのを慌てて制止すれば、彼は動きを止めて振り返った。どうした、とその柔らかな瞳が訊いてくる。 「いや、解いちゃったら問題消えちゃうんでしょ。せめてその前になんで答えわかったか聞かせてくれない?」 そう、隣で頭を捻る鰍の事などそしらぬ素振りで問題を解こうとしていたのだ、この男は。解説も何もないまま答えを与えられても到底納得できるものではないと、破天荒な彼をとりあえず宥める。 人形の下に表示された解答欄に残されたのは、五つの文字。 「えーと、RHYTH――なにこれ?」 「Rhythm、リズムだ」 あっけらかんと、手の内を明かすように応える。節張った指先が、キーボード上の最後の一文字を指し示していた。 「ムジカさん、この暗号全部覚えてたり?」 「流石にそこまでじゃないよ」 訝る鰍に、微笑んで首を振る。確かにムジカは古今あらゆるミステリ小説を読破しているらしいが、流石にその場で出た暗号をすべて網羅できるほど記憶力豊かなわけではないようだった。 「問題の上を見てみるといい」 「上?」 促されるままに、踊る六体の人形の上を見遣れば、そこにもまた、ごくごく小さな人形たちが踊りまわっていた。全く気が付かなかった、と鰍は目を瞠る。 「これは?」 「今までの問題でも出ていただろう。前置きの一文みたいなものだ」 「見てたんなら手伝えよ」 憮然とした声が割り込み、ムジカは飄然と笑う。ソファに背を預け、最早問題を見るつもりすらない連治が睨むように彼を見ていた。――どうやらムジカも、連治の解読作業を見てはいたらしい、と、そこでようやく悟る。 「はは、すまない。それで連治、今までの問題にはどう書かれていたんだ?」 「全部覚えてるくせに聞くなよ、意地の悪い――『Let me put a question to you』。貴方へ問題を提示しよう、だ」 「ああ、前置きってそう言う」 全く気が付かなかった、と再び感嘆する。つまりは暗号と共に、制作者からのメッセージも一言添えられていたのだ。連治も、ムジカも、さり気なくそれに気が付いていたらしい。 「で、それがどうなるって?」 「ん? ああ、今までどの暗号にも同じ一文が添えられていただろう? だから、この問題の上で踊る小さな彼らも、同じ文面を示すんじゃないかと思って」 言われてみれば確かに、連治の口にした文面と、単語ごとの人形の数が一致する。ムジカはそれを一目で把握して、そこから暗号を解き明かしていったのだろうかと感心する傍らで、鰍は新たな疑問に気が付いた。 「……って、この文章、RもHも出て来ないじゃん」 解答に使用された文字が、文面の中に存在しないのだ。『RHYTHM』の内、僅かにYとTとMがあるのみ。これらから単語を特定するのは難しいと、それくらいは英語に疎い鰍でも判る。流暢に英語を繰る――実際には日本育ちらしいのが解せない程度には見た目もそうなのだが――ムジカなら事情は違うのだろうかと彼を見遣れば、形の良い眉を持ち上げて、彼は悪戯に目を眇めてみせた。 「よく気付いたな」 「何でこれで解けるわけ? やっぱ覚えてるんじゃないの?」 二度目の問いにも、やはり首を横に振る。 「そもそもそれ、原典の暗号と形を変えてあるから覚えてても無意味だぞ」 そしてまた、怠惰にソファに身を預ける連治から声が掛かる。遠目でも人形の姿は見えているようで、長い指が画面を指し示しながらゆらゆらと揺れている。 「え、連治覚えてんの?」 「あんな強烈なの忘れるかよ。R,H,Y,T,M、全部原典で出てくる文字だ」 三度目の問いを、今度は別の人物に投げかける違和感。目を丸くする鰍と、面白そうに事態を眺めるムジカの前で、連治は取り出したトラベラーズノートに六体の人形を書き綴った。画面の上で踊る人形とはまた違う、奇妙なポーズを取った六体を。 「これが?」 「原典――シャーロック・ホームズが解き明かした暗号の形を使った、RHYTHMだ」 すらすらとその下に、何やら長い単語を付け足して、あっけらかんとそう言い放つ。付け加えられた方の単語にまたも首を傾げる鰍の隣で、ムジカが「SHERLOCK HOLMESだ」と解説をくれた。成程、と得心する。 「……よく覚えてるなあ」 そして、そう称賛するしかなかった。呆れと、溜め息と、驚きを綯い交ぜにしながら。流石は名探偵、と先程ムジカの口にした言葉をなぞる。 「でもさ、原典と違うってんなら尚更、何で解けたの? ムジカさん」 「ああ、だから――」 微笑み、応えながらふと、ムジカの瞳が連治へと移される。その視線の含む意味に気が付いたのか、彼は眼鏡の奥の瞳を大仰に歪ませ、これ以上ないほどに嫌そうな顔を作るのだった。 「……母音が無いから、だろ」 苦々しい口振りで、そうとだけ言う。 「流石。よくわかってる」 促したムジカは、至極満足そうに微笑みを咲かせた。そんな二人のやり取りの真意が汲めず、目を瞬きさせるばかりの鰍に、ようやくムジカは向き直って説明を加えなおした。 「問題の前置きの一文をよく見ると、母音――『AEIOU』の全てが揃っているだろう?」 「ああ、うん」 「だが、問題の単語にはその五つのポーズ、どれも含まれていないんだ」 「……あー……?」 言われてみれば、確かにそんな気もする。 頭をぐるぐると回転させながら、鰍はムジカのくれる説明を咀嚼しようと首を傾げて唸った。単語に母音が含まれていないのは判った、だが、それが何を意味すると言うのだろう。 「そして、母音を必要としない――つまりは子音だけで構成された単語の内、六つもの文字を使う言葉は一つだけ」 『RHYTHM』――それが、ただ一つの答えだと。 微笑んだムジカが、キーボード上の最後の一文字を叩いた。 鮮やかに青い光が、書面の上に立ち昇る。0と1に変わり、ぼろぼろと毀れていく人形たち。踊るようにほどけるように、形を崩し、大気に融けていく光。何度も見慣れているはずのソレに、鰍は改めて魅入られていた。まるで、水中の魚の吐き出した息が、水面へと浮かび上がって溶けていくような、柔らかな穏やかな光景。精緻な錠を解き明かした時の解放感に何処か似ている、と、そう思う。 やがて、光は消え、残されたのは蒼く青く透き通った、『0』の一文字。 ムジカは微笑み、長くしなやかな指先が、その一粒をつまみ上げた。 PR Copyright © [ 無声慟哭 ] All Rights Reserved. http://asurablue.blog.shinobi.jp/ |