はらり、ひらり、と降り注ぐ花弁が、燃え上がるようにして踊る。風を受けて翻り、大地に触れては儚く尽きる。積もる事のない焔の吹雪が庭一面を覆い、さながら真冬の空のようだ。
白銀という穏やかな色彩をしていながら、その花弁を焔のようだと思ってしまうのは、この屋敷を護るものそれ自体が白銀の焔だからだろう。
巨大な鳥妖の庇護を受け、白銀の美しい鬼が棲むこの家に、何の因果か自分は仮宿を受けている。当初は何度も隙を見て逃げだそうとしたものの、その都度鳥妖に見つかり、先回りされた挙げ句に鬼の元へと連れ戻されてしまった。白銀の鬼に美貌を歪ませた笑みで見下ろされる度、彼の中の何か大事なものがへし折れていく気がして、今では逃げ出す気力すら起きない。――そもそも、反抗さえしなければただの熱心な刀剣蒐集家で居てくれるようだ、と言う事に気付いたのもあるのだが。
定期的に手入れをしてくれ、それ以外は日がな自由にさせてくれるのだから、元より引きこもりたいと思っていた自分には好都合であるはずだ。そう無理矢理自分を納得させ、彼は此の屋敷に留まる事に決めた。
そうしてからは、離れ――鍛冶場へと続くこの縁側で、ぼんやりと散る桜を眺めるのが彼の日課となっている。時折離れへと赴く家主を見かけることもあるが、その時の彼はとても穏やかな表情をしていて、声をかける事すら憚られるほどだ。――自分に対する時も、ああであってくれると嬉しいのだが。
降り注ぐ焔の雨を身に受けながら、彼はただ静かな心地で居る。花が降る、その音さえも聴き取れるような静寂。縁側に身をゆっくりと投げ出して、彼は微笑み瞼を閉じた。
「――……おい」
降り注いだ声に鼓膜を揺すられ、彼は緩やかに微睡みの海から浮かび上がる。焔の雨、燃える花と同じ、美しい声だ、と心の内で称賛して、そこで目が覚めた。
「!」
「寝とったんか」
まだ眩む視界に映り込むのは、淡い色彩を身に纏う鬼。甘く柔らかな金色を歪ませて、微笑に似た表情を象る。その色は降り注ぐ桜によく似て、美しく――畏ろしい。
『……鍛冶師はん』
名を呼び、咄嗟に逃げを打ったものの、それが叶う事は無かった。
いつしか、その身は人から刀へと戻っている。身動ぎする為の手も足も持たぬ状態で、彼は持ち上げられ、見下ろされていた。金の視線に晒され、恐怖から鍔がカタカタと小刻みに震える。
「こがァな場所で居眠りたァ……刀としての自覚は無いんか、お前には」
多分の呆れを含んだ声がかかり、しかし口元に刻まれた笑みは一層濃さを増す。明らかに愉しそうだと判る表情に、更に鍔が鳴った。
このまま震え続けていれば、鞘から抜けて逃げ出す事が出来るかも知れない――そんな浅はかな考えを読み取られたのか、しっかりと柄を握り直される。
『ひ、人と違うんやし、ええでしょう、別に……ッ』
「人なら別に何処で寝ようが死のうが構わんがな。こがァな所に転がって、誰ぞに踏まれたらどがァするつもりじゃ。そん椿が欠けても、直したらんぞ」
『誰ぞって、この家にはわぇとあなたしか』
「……居らんと思うたか?」
噫、折れた。
絶望によく似た諦観が、彼の心の奥で枯れ枝を踏む様な音を立てた。彼にしか聞こえぬ音を拾いながら、白銀の鬼の笑みから必死に目を逸らす。頑丈な筈の己が鋼でさえ、この視線に射抜かれれば容易くへし折れてしまいそうだ。
『おるん、ですか』
「時折紛れ込む鼠が居ってな……鬱陶しゅうて敵わんわ」
嘆息を零すその仕草すら、切り裂かれるかの様な鋭利な美しさを纏っている。覗きこむ金の瞳は伏せられ、憂いを帯びた眼差しが何故か胸に痛い。
一層高く音を立て、恐怖を全身で体現する彼の耳――聴覚に、刀、と彼を呼ぶ声が聴こえた。
「こがァな場所に居ったら、簡単に盗まれてまうじゃろう。……桜の護りも万全じゃァな
いんじゃけェ」
先程までの様な愉悦を含んだものでは無い、穏やかだが真摯な声が聴覚を低く揺さぶる。彼の震えが、鍔鳴りがぴたりと止んだ。
静かに鞘を取り払われるのにも、繊細な手つきで刃に指を添わされるのにも、何故か逆らう気が起きない。
「刀。……お前が居らんようになったら、俺はどうすればええ?」
触れる指先は微かに震えている様で、それが己の震えなのか、それとも彼の震えなのか、見当が付かなかった。
はらりと降り込む桜の花弁が、見上げる鬼の髪に触れ、美しく燃え上がる。焔を纏う白銀の鬼に、彼は呼吸さえも忘れ、ただただ見惚れた。
薄く紅い唇が、微かに歪む。
其処から言葉が紡がれるのを、彼は待っている。
「うう……何たる仕打ちや……一瞬でもええお人やと思うたわぇが阿呆やったわぁー!」
『喧しいですよ、刀。場を弁えなさい』
屋敷の離れに当たる、鍛冶場。高い窓から白銀の桜を覗く事の出来るその場所の、隅の隅。
がたがたと全身を小刻みに震わせる彼に、炉の方角から声が降った。白銀の焔が踊る様に跳ねて、静かに鳥の形を象る。
屋敷の主に惜しみない寵愛を注ぐ、白銀の鳥妖だ。
「せやけど鳥の姐さん……酷いと思いませんか。あのお人はこれが刀にとってどない大変な事かを知っとるゆうのに」
『灰燕様の御怒りに触れた貴方の責です』
「……やっぱりあなた、鍛冶師はんの伴侶やわぁ」
『それは光栄』
鳥妖の冷酷な視線を一身に浴び、身をちぢ込ませる。――先程から、焔がすぐ傍で燃えていると言うのに、風が冷たくて仕方がない。寒さを感じぬ刀の姿である筈なのに。
彼の優美な刀身を包む、鞘が取り払われているからだ。
鞘だけでは無い。中心を隠す筈の柄も、椿を彫り込んだ自慢の鍔も、――刀身以外の全てが、あの鬼に持っていかれてしまった。不用心に対する仕置きと称していたが、それにしては度が過ぎるのではないか。
文句を言おうにも、当の本人はこの場には居ない上に、刀の姿では探しに行く事さえ出来ない。人の姿に戻るには、鍔も鞘も柄も無いこの状態では色々と支障がある。
勿論、それらを全て承知した上でのこの仕打ちなのだろう。
『……今暫く其処で大人しくして居られるが良い。じきにあの方も赦してくださるでしょう』
「うう……もう堪忍してぇな……」
刀身のまま打ちひしがれながら、金輪際縁側には近付かない、と彼は心に決めたのだった。
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