抑えきれない慟哭が胸を満たし、声の代わりに黒く濁った血を吐いた。
裂けた皮膚が痛み、噴き出す血が乾き凝固していく。
負荷の掛った心臓は傷み、肺が酸素を受け付けない。
失われた命を悼み、せめて来世での幸福を、と祈る。
肉を抉られる様な痛みに眉を顰め、しかし失われた命の負った苦痛はこれとは比べ物にならないのだろうな、と瞑目する。
瞑目し、暗闇に覆われた中で、修羅は微かな足音を聞いた。聞き覚えのあるその音に、小さく安堵する。
足音を立てない、猫の様な歩き方。
あの、飄々とした、怠惰な神のものだ。
足音が、止まる。修羅は瞳を閉じたまま、小さく顔を上げた。
「……何や、よぉ此処が解ったのぉ?」
「――」
笑み交じりで問い掛けた修羅に、神は沈黙を返す。落とされた無言を訝しく思い、修羅は異色両眼を開いて、血の滲んだ視界で神――ミケランジェロを見上げた。
咥える煙草から、灰が落ちる。
忌々しげに舌を打ち、ミケランジェロは髪を掻き上げた。見惚れるほど鮮やかな紫が、真摯に、抗議する様に修羅を見下ろす。
「……お前の血なんざ嗅ぎ飽きたんだよ、馬鹿が」
そう呟くと、向かいの壁に凭れかかった。修羅から零れる赤を見詰め、至極不愉快そうに顔を歪める。
「で、それは何なんだよ?」
唐突に問い掛けられ、修羅――昇太郎は首を傾げた。指示語が指すものが何であるか解らず、ただ無垢な瞳で紫を見据え返す。
ミケランジェロは呆れた様に髪を掻き混ぜ、咥えていた煙草を投げ捨てる。新しい一本を指に挟み、それを使って昇太郎の胸元を指し示した。つられる様に、昇太郎も己を見る。
肩から脇腹にかけて、大きく裂傷が走り、其処から白く神聖な、しかし禍々しい光が漏れ出していた。
「ああ」
「ああ、じゃねェだろ。何だそれァ、蛍かお前は」
「違うわ阿呆。――これは、俺が背負うとるものや」
「……神、とか言う女か」
苦々しげなその言葉に、昇太郎は小さく笑って首を振った。
「……誰かが、死んだんじゃろうなぁ」
「お前の世界の?」
「こっちに来とったんよ、きっと」
ミケランジェロは合点した。
輪廻を背負う修羅は、失われた命をその身に受け容れたのだろう。そして、肉体が許容量を超えたのだ。裂けた皮膚の間から毀れる光は恐らく、彼が背負う幾多の輪廻。
しかし、それでも昇太郎は笑う。ミケランジェロが唇を噛んだのが見えて、それがまた可笑しくて声を上げた。
甘い紫が、修羅の傍らを飛ぶ金色へと向けられる。一筋の期待を込めて。
だが、金色は素知らぬ顔で羽撃き続けた。
「ミゲル」
昇太郎が、熱に浮かされた眼でミケランジェロを見上げる。その言葉に反応した金の鳥が、ふうわりと飛んで、昇太郎の肩に収まった。
「 には治せんのよ、これは」
鳥の喉を撫でてやりながら、昇太郎は呟く。
彼が誰かの名前を口にした様な、それを確かに聞いた様な気がするのだが、何故かミケランジェロには記憶出来なかった。だが、それが鳥――彼の古い友人の名である事だけは、解った。
「……何でだよ」
「さぁ」
「自分の事だろうが」
「俺にもよぉ解らんのよ。――とにかく、もう直ぐ俺は死ぬ」
放たれた言葉に、銀色の眉がぴくりと跳ねた。昇太郎はそれにも笑みを返しながら、全身の力を抜いた。自らから毀れる光を眩しいと感じ、目を細める。
「じゃけど、気にせんでええ。すぐに再生する――……ちゅうても、1日くらいはかかるじゃろうけどな」
微笑してみせると、ミケランジェロはまた舌を打った。
「……んな事、出来るか」
「?」
千切らんばかりに煙草を強く噛み、座り込んで壁に凭れかかる。
「お前が目ェ覚ますまで此処に居てやるよ」
「……じゃけぇ、そんな事せんでも」
「拒否権は無い」
甘く鋭い紫に射竦められ、修羅は二の句を告げなくなった。しかし、特に構わないかと思い、ぼうやりと瞳を閉じる。
「――馬鹿が」
ぽつりと落とされた、低い呟き。
罵るはずのその言葉が妙に居心地が良いのは、何故だろう。
修羅とは、孤独でなければならない。
心を空にしなければ、輪廻を全て受け容れる事など出来ないのだから。
誰かを思う感情があっては、器が溢れてしまう。
自らの幸福と他の全ての命。
天秤に掛けるまでもない。迷う事無く、自らを切り捨てた。他の全てを背負う為に。
そうして、彼は孤独を甘受してきた。
ならば。
死の瞬間、隣に誰かが居る。
それだけで嬉しいのは、嬉しく思うのは、赦されない事だろうか。
揺らぐ心を持て余しながら、修羅は一時の死に身を委ねた。
BGM:椎名林檎「闇に降る雨」
人の身には大き過ぎるものを背負う修羅と、無力な自分を歯痒く思う神。
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